日近城は、岡崎市桜形町のかおれ渓谷を流れる乙川と毛呂川の合流地に建つ広祥院の裏山に位置する戦国時代の山城で、岡崎市の指定史跡になっています。
暑い夏、日近城散策で汗をかいたら、かおれ渓谷に下りてみませんか。
史跡と歴史と自然を満喫する夏の日近の里おすすめ散策ルートです。
- この記事のポイント:
日近城散策ルートと最新情報を徹底解説
「おふう」を知れば戦国時代を生き抜いた人々の歴史がみえてくる
紅葉の景勝地かおれ渓谷、夏は「かき氷街道」で涼む
日近城へのアクセスと駐車場
広祥院前から県道35号線を100mほど東進すると左手に日近の里駐車場があります。
無料で利用ができます。
日近城おすすめの歩き方と見どころ
夏場に日近城へ登るのは、山林の中を歩くとはいえ暑いです。
できるだけ暑さを避けるため午前中早めに行動するのがおすすめです。
本丸は展望が効くわけではありませんが、木立が日差しを遮ってくれます。
尚、現地は山崩れの影響で通行に注意が必要な箇所があります。
記事を参照してください。
瑞屋敷跡からの直登ルートでアプローチ
日近の里駐車場の北側は開けた草地になっていて一段高い石垣の上は「瑞屋敷跡」と呼ばれています。
奥平貞友の隠居屋敷跡と伝わっています。
夏場はこの瑞屋敷前から日近城へ直登するルートがすぐに日陰を歩けるためおすすめです。
駐車場西の建物の壁に付近の見取り図が掲示されており、参考になります。

現地掲示の見取り図
山の南側斜面で土砂崩れが発生しています。
土砂崩れの下部を横切る登城ルートもありますが、斜面直下には近づかないほうが賢明です。

日近の里駐車場から瑞屋敷跡を望む
瑞屋敷前に白い小さな道標が一つ立っています。
「城址は左」の矢印となっていますが、正面奥に見える丸太の階段を上がって行くことができます。
矢印の通りに左へ進むと土砂崩れの斜面直下に出ます。

城址登山口(道標の矢印は左を示すが正面の丸太の階段を直登できます)
日近城の見どころ
本丸へは15分程度で登れます。
史跡、遺構を見学しながらゆっくりと探勝するのがおすすめです。
山中を歩きますので、靴はしっかりしたものを履いていきましょう。
おふうの墓
瑞屋敷跡のすぐ東側にあります。
おふう、おふうの祖母貞子、仙千代三人の墓が並んでいます。
おふうについては後述します。

おふうの墓
堀切と土塁(城址とトイレの分岐点)
瑞屋敷跡から直登すると「←城址・トイレ→」とある道標が現れます。
堀切の中に立つ形となり左側が土塁になっています。
堀切の向こう側は本曲輪の北側を半周する腰曲輪へ続いています。
少しだけ覗いたら引き返して城址方面へ向かいましょう。

堀切(城址・トイレ分岐)
本曲輪直下の堀切
主郭と土塁を断ち切る堀切です。
ここで堀切の向こう側へ進んでこちら側を振り返ってみると両者の高低差やV字形状がさらによく見てとれるのでおすすめです。

本曲輪直下堀切
本曲輪
馬走りを回って本曲輪に上がります。
主郭の東側と北側には高さ1m、幅3mほどの土塁が巡らされています。
土塁の上に立って今ほど登ってきた馬走りと堀切方面を見下ろしてみると寄せ手を威圧している構造がよくわかります。

本曲輪
連郭式縄張と後の改修
本丸奥に日近城の歴史と縄張の鳥瞰図が案内されています。
日近城は二期にわたる築城・改修が想定されており、築城当初は簡単な連郭式縄張りで現存する曲輪、土塁、横堀、堀切などの発達した構造は徳川氏による改修と考えられています。

現地案内板の鳥瞰図より
虎口
馬走りに登り上がる箇所に高低差を利用した虎口がつくられています。
左側の石積で下からの見通しは狭められ、急登を攻め上がって行くには大変であることが実感できるポイントです。

高低差と石積が見通しを阻む虎口
本曲輪を半周する腰曲輪
主郭の北側は急峻な崖となっており木立の中に小規模な横堀構造や防御ラインが構築されていますがあまり歩かれていないため道が荒れて腰曲輪の看板も落ちてしまっています。
興味がある方は前出の堀切から主郭の北側へ回り込んで探索してみるとよいでしょう。

腰曲輪
出かける前に知っておきたいおふうの墓
日近城にでかけるなら、奥平家のおふうや仙千代らについて知っておくと俄然興味深く散策できます。
おふうの墓については、現地の立て札には次のように紹介されています。

おふうの墓
おふうは、日近の城主二代目、奥平久兵衛貞友の娘である。
元亀元年(1570)、奥平本家の仙千代(仙丸)、日近家のおふう等は武田方の人質として送られた。しかし、天正元年(1573)、奥平氏は武田方にそむいたので、仙千代らは鳳来寺口で処刑され、さらし首となった。そこで、乳母と柳田専念寺の僧永順と百姓助左衛門はひそかに三人の首を奪って、おふうを生地であるこの地に葬った。
ここがおふうの墓所である。向かって左がおふう、中央がおふうの祖母貞子、右が仙千代である。
なお、おふうはおやす、おつう、おあわ、おひさ等ともよばれていた。
奥平家の家譜については江戸幕府編纂の寛政重修諸家譜と中津藩史では記述が異なっているところがあり理解に苦しみますが、久兵衛貞友の父、または祖父にあたる奥平貞昌が広祥院の開基とされる人物です。
そして系譜は貞昌から貞勝→貞能→貞昌(先の貞昌からは曾孫にあたる。後に信昌と改める)と下ります。
この信昌となる貞昌が武田軍との長篠城攻防で活躍し、後に徳川家康の長女亀姫を正室とした人物です。
おふうは貞能、貞昌親子が武田氏に与したときに武田方に差し出された人質のひとりです。
武田勝頼は貞能、貞昌親子が徳川に帰参したのを受けておふうや貞昌の弟である仙千代らを処刑しました。
ときに天正元年(1573)おふう16歳、仙千代はわずか13歳でした。
おふうは一説に奥平氏本家貞能の病気の妻にかわって人質に出されたとも、貞昌の妻だったとも説明されることがありますが日近奥平氏の系譜です。
祖父にあたる初代久兵衛貞直は本家の奥平貞勝と対立し日近を追放され、貞直の子彦九郎も本家によって殺されているのです。
おふうは貞直の子二代目久兵衛貞友の娘です。
奥平氏本家は追放した分家の孫娘を人質に差し出したことになります。
何故おふうだったのでしょうか。
おふうや仙千代には何の罪もないのに悲しい運命だけを背負わされました。
人質を捨てても徳川氏についた奥平貞能、貞昌親子の一族存亡をかけた非情の決断は長篠城における武田軍との攻防へとつづいていきます。
尚、おふうと仙千代の墓は鳳来寺小学校の近くと鳳来寺口にもそれぞれの墓と碑が建てられています。
鳳来寺山登山などの折りに探訪されるとよいと思います。
こちらの記事でも紹介していますのでご参照ください。

下山ルートを2つ紹介
さて、往路を下まで戻らずに本丸から下るルートは2つありますのでそれぞれご紹介しましょう。
山崩れの箇所を避けてどちらからでも駐車場に戻ることができます。
山上のトイレ横からかおれ渓谷へ下山
このルートで下山するとおふうの墓のさらに東側に下りてくるので、かおれ渓谷へ行くには近道になります。
上部半分はよく踏まれており歩きやすいですが、途中から草付きの斜面を下りることになります。
夏場は草丈が深いので山を歩き慣れている人向けのルートです。
山上トイレ前の「日近の里森づくり」の看板のところでY字分岐になっています。
右手看板裏の道に進めば、かおれ渓谷へ下山できます。

下山路のY字分岐(看板裏を右手に下ります)
道は送電線の下に出て視界が開けます。
この先から草付き斜面の踏み跡を下ります。
夏場は草丈が深く手足を切りやすいので肌の露出がない服装が望ましいです。
また山の傾斜面の脇で踏み跡を外しやすくなっている箇所があります。
スリップ、転落に注意が必要です。

送電線下から草地を下ります
城址への道標がある登城口へ下山してきます。
右手に行けばおふうの墓、正面へ進めば県道35号線やかおれ渓谷がすぐ近くです。

城址登城口へ下山してきます
弘法山八十八カ所めぐりをしながら高祥院へ下山
もう一つのルートは城址の連郭を二の曲輪、三の曲輪と下って高祥院へ下りるルートです。
弘法山八十八カ所めぐりをしながら下りられるのでおすすめですが、途中崖崩れ現場の上部を横切りますので注意する必要があります。

崖崩れ現場上部は通行要注意
トラロープ脇を下りると「曲輪・武家屋敷跡・高祥院」を分ける分岐に出て道標が立っています。
武家屋敷跡方面へ進むと崖崩れ斜面の直下に出てしまいます。
高祥院方面へ下ります。

曲輪・武家屋敷跡・高祥院分岐
弘法山八十八カ所、奥平家墓所、不動尊と辿って鐘楼堂のある高祥院へ下ってくることができます。

高祥院
期間限定!かおれ渓谷のかき氷で涼をたのしむ
かおれ渓谷といえば秋の紅葉で有名ですが、夏場もその渓谷美の魅力は変わりません。
また暑い夏はおかざきかき氷街道の店舗のひとつ「林音@日近の里」が営業しています。
9月29日までの期間限定営業で水曜日と木曜日は休業です。
平成の名水百選に選ばれた鳥川の天然水で作られたかき氷は超軟水のまろやかな口当たり。
日近の里駐車場からすぐのところにありますので、日近城を下山したら立ち寄ってみたいですね。

林音@日近の里のかき氷で一服
鳥川については、こちらの記事でも紹介しています。
ご興味があればお読みください。

かおれ渓谷に下りれば青い空、緑の紅葉、川の水音に癒やされます。
ゆっくりと青空ランチを楽しむことができます。

夏の緑の紅葉もすばらしいかおれ渓谷
管理人探訪日 | 2024年8月9日 |
日近の里駐車場発 | 8:55 |
日近の里駐車場戻り | 12:10 |
*かおれ渓谷散策含む