令和6年の長篠合戦のぼりまつりは終了したが、来年5月には長篠・設楽原の戦いから450年を迎えようとしている。遠い昔の話のようでもあり、つい先日の出来事のようにも思える。
天正3年(1575)5月1日、武田勝頼が15,000の兵を率いて奥平貞昌以下500人が守備する長篠城を包囲して、わずか20日間ほどの間には歴史に刻まれる数々のドラマが生まれた。
語り継がれる長篠の戦い、長篠城の攻防とは実際にはどのようなものであったのだろうか。
長篠城を現代に訪れるなら、戦国時代の武将たちがその場にいた陣地や砦などを自分の足で訪れてみたい。そうすれば彼らの姿がぐっと身近に感じられるはず。
ここでは長篠城攻防戦の舞台となった名所・旧跡を10箇所選び、ハイキングで訪れる場合と自転車を使ってサイクリングでめぐる場合に分けておすすめの歩き方をご紹介してみる。
ハイキングで歩けば納得!武田軍の布陣
ハイキングの起点は長篠城址史跡保存館とする。同史跡保存館では電動アシスト自転車の貸し出しサービスも実施しているが、ここではまずハイキングコースとして①大通寺、②医王寺、③荏柄天神・天神山陣地跡をつなぐルートをご紹介する。
上記3ヶ所の寺社へは自転車や車で訪れることも可能だが、山中に整備されている史跡探訪コースを辿る箇所は徒歩での散策となり、見どころの陣地や見晴らし場は山中にある。
通しで歩く他には、自転車等ででかけて山中は歩きでという選択も可能なので、各自の体力や余裕時間に合わせて工夫してでかけるとよいだろう。
ハイキングルート:長篠城址史跡保存館🚶(5)→大通寺(20)→医王寺(15)→物見櫓・医王寺山陣地(10)→荏柄天神社・天神山陣地(15)→長篠城史跡保存館
*所要時間には休憩、見学時間を含んでいない。
1.大通寺
長篠・設楽原の戦いで、長篠城を包囲する武田軍が陣地とした曹洞宗の寺院。
付近には2,000人が配備されていたという。寺は長篠城址のすぐ北側の傾斜地にあり眼下に長篠城本丸を見下ろす。
本堂の裏手に設楽原の決戦前夜に馬場信房、内藤昌豊、山県昌景、土屋昌次が水盃を交わしたとされる杯井と呼ばれる小さな泉がある。
2.医王寺
医王寺へは大通寺から大通寺陣地跡を経由して徒歩で向かう。
史跡探訪コースの道標が設置されているので、杯井から「大通寺陣地跡」の道標にしたがって大通寺本堂裏手にある墓の脇を通って杉林の中の小径を辿る。
史跡探訪コースを歩くには軽登山靴を履いて行った方が良いだろう。「大通寺山」の道標を通過して「医王寺」の道標に従って下れば車道に出る。5分ほど車道を歩けば武田勝頼が本陣をおいた医王寺に到着する。
「片葉の葦」の伝説が残る弥陀が池、資料館などを見て回ったら、物見やぐら・医王寺山陣地へでかけてみよう。医王寺から史跡探訪コースを時計回りでも反時計回りでも行けるが、反時計回りがおすすめだ。
駐車場の案内板横から「本陣・物見やぐら」の道標に従って舗装路を進み、民家手前から山道に入る。
シダの茂る斜面をジグザクと10分ほど登れば物見やぐらが見えてくる。やぐらに登って見わたせばなるほどこの地に本陣を置いた理由もよくわかる。
3.荏柄天神・天神山陣地跡
やぐらからは、「医王寺・天神山陣地跡」の道標に従って下る。
途中で医王寺に直接下りる道と「荏柄天神・天神山陣地跡」に向かう山道に分かれるので、荏柄天神方面へと進む。
擬木のステップを少し登れば、荏柄天神・天神山陣地跡に到着する。ここも武田軍2,000人が布陣していたところだ。
荏柄天神社からは、舗装路を歩いて20分ほどで長篠城址史跡保存館に戻ることができる。
サイクリングで実感!鳥居強右衛門の鉄人ぶり
前述のように、長篠城址史跡保存館では電動アシスト自転車の貸し出しを行っている。午前9時から午後4時までの間に、一回当たり最長3時間まで利用できる。
自転車なら次のような見どころも楽々周遊できるのでおすすめだ。
サイクリングコース:長篠城址史跡保存館🚲(2)→強右衛門叫びの地~蟻塚(1)→馬場美濃守信春(信房)の墓と中央構造線長篠露頭(5)→鳥居強右衛門磔死之趾(5)→新昌寺・強右衛門の墓(5)→牛渕橋(10)→中山砦跡(15)→鳶ヶ巣山砦跡(10)→長篠城址史跡保存館
*所要時間に休憩、見学時間は含まない。中山砦跡及び鳶ヶ巣山砦跡へは最後は徒歩となるので、サイクリング及び歩行時間を含んでいる。
4.強右衛門叫びの地~蟻塚
長篠城址史跡保存館のすぐ北側、舗装路脇にある強右衛門「呼びかけ」の伝承地に立ち寄ったら、国道151号線に出て長篠大橋方面へと進む。
かつての大手門跡のほど近くにある薬局の駐車場と民家の間に「蟻封塔」と刻まれた石塔が建っている。
この地は長篠・設楽原の戦いで亡くなったたくさんの戦死者を葬ったところで、江戸時代に夥しい蟻が出て村人を悩ませたことから石塔を建てて供養したところ蟻は発生しなくなったと伝えられる。
5.馬場美濃守信春(信房)の墓と中央構造線長篠露頭
蟻塚から国道151号線をさらに西へ進み、ガソリンスタンド前で左折して畑地の中へ進むと馬場美濃守信春(信房)の墓が、そして墓のすぐ手前から道標に従って豊川に向かうと中央構造線長篠露頭がある。
武田四天王の一人に数えられる信春は設楽原の決戦で撤退する武田勝頼を最後まで守り抜き、勝頼の退却を見届けた後に自らの首を敵兵に差し出したと言われる勇猛の士。
信春の墓から100mほど西方にある中央構造線長篠露頭も必見だ。中央構造線は西南日本を約1,000kmにもわたって横断する日本最長の断層帯。
織田・徳川連合軍と武田軍が争った長篠・設楽原の戦いは連合軍の圧勝であったが、ここ長篠露頭では二つの成り立ちの異なる岩石、領家花崗岩と三波川結晶片岩がぶつかり合い、いまだせめぎ合っているように見える。
太古の岩石同士の戦は引き分けということにしておこう。
6.鳥居強右衛門磔死之趾
武田軍に包囲された長篠城を脱出し、織田信長・徳川家康に援軍を求めることに成功しながらいち早く長篠城に戻る際に捕縛され磔刑となった鳥居強右衛門。
鳥居強右衛門磔死之趾へ行くには、国道151号線に戻り、東方から長篠大橋を渡り、有海の交差点で左折する。
新東名高速道路をくぐる手前でもう一度左折して高速道路沿いに東へ向かうと畑地の中左奥に建つ碑が見える。
自転車なら駐車場を気にすることなく訪れることができる。
7.新昌寺・強右衛門の墓
つづいて創建当時、喜船庵と称された新昌寺を訪れる。
新昌寺へは強右衛門の石碑から南下して新東名高速道路をくぐったら高速道路沿いに西へ進む。自転車で5分もかからずに行ける。
喜船庵は強右衛門が磔になったあとに最初に埋葬されたという寺で境内には強右衛門の胴体が、また作手の甘泉寺に頭部が埋葬されていると伝えられている。
寺に隣接して強右衛門の墓が拡張整備されている。
8.牛渕橋
次に牛渕橋へ向かう。今来た道を真っ直ぐ戻れば良い。
牛渕橋から望む長篠城址は豊川と宇連川が合流する景観の中にあり、定番の写真スポットだ。橋の道幅はそれほど広くないが、自転車だと気楽に立ち止まって眺めることができる。車だとこうはいかない。
橋上から強右衛門が泳いでいったであろう豊川をのぞいてみる。信長、家康に援軍を求めて強右衞門は武田軍の包囲網をくぐり抜けて長篠城を脱出し、雨で増水したこの川を広瀬の地まで4kmも泳ぎ下ったという。
9.中山砦跡
武田軍が長篠城を攻撃する際には、中山、鳶ヶ巣山など5つの砦に軍を展開して長篠城を包囲していた。
現在の中山砦跡は、史跡公園として整備されて展望台が建っている。中山砦跡へ行くには、牛渕橋を東へ渡って右折して高速道路をくぐる手前で左折する。
ちょうど高速道路の下から史跡公園へ登る212段の長い階段がある。ちょっときついが、自転車を階段下に止めて登ってみよう。
この砦跡のよいところは、長篠城址や大通寺、医王寺といった武田軍の陣地、さらには強右衞門が豊川を泳ぎ切り、脱出成功の狼煙を上げた所などの位置関係を一望に見渡せることだ。
案内板と対比して目をやれば強右衞門はあんなに遠いところまで泳ぎ、走ったのかと、ただただその鉄人ぶりに驚嘆するはずだ。強右衞門は信長、家康のいる岡崎までまだまだその先を急いだ。
10.鳶ヶ巣山砦跡
鳶ヶ巣山砦跡もおすすめだ。鳶ヶ巣山砦跡へ行くには牛渕橋まで戻る。
橋を東へ渡った正面から「鳶ヶ巣山砦跡」の道標が続くのでそれに従って進めばよい。
細い坂道に入ってから山道になるので自転車を押し歩くのがきつくなったら適当なところに駐輪して歩くとよい。
「鳶ヶ巣山砦跡・中心地まで300m」の案内板が立つあたりで大通寺や長篠城址方面の展望が開ける。
その先にある戦没将士の墓が建つ鳶ヶ巣山陣地は林の中なので、このあたりの景色のよいところで青空ランチにするのがおすすめである。
鳶ヶ巣山陣地には戦没将士の墓が建つ。強右衞門は長篠城を脱出した翌日には岡崎に到着して信長、家康に援軍の要請を果たすことに成功する。
一日も早く吉報を伝えようと長篠城へととって返す途中で武田軍に捕らえられて処刑されてしまう。
そのわずか5日後の早朝。ここ鳶ヶ巣山砦をはじめとする5つの砦を今度は徳川四天王の一人、酒井忠次率いる部隊が急襲して武田軍の部隊を殲滅することになる。
退路を断たれた勝頼は完敗することになる設楽原の決戦へと突き進んでいく。
鳶ヶ巣山陣地をあとにして自転車を置いた地点まで戻る。
県道439号線に出たら別所街道合流手前で宇連川を北へ渡り、飯田線の長篠城駅を回って長篠城址史跡保存館へサイクリングしながら戻る。
管理人探訪日 | 2024年6月17日 |
長篠城址史跡保存館発 | 8:05 |
長篠城址史跡保存館戻り | 14:15 |
*中間に長篠城址史跡保存館見学を含む