岩伏山は設楽町西納庫の里の背後に小ぶりながらもなだらかで優しげな稜線を見せています。
しかしこの山はその名が示す通りかつては岩石がそびえ立つ岩山で室町時代の文正年間(1466~1467)に降った長雨で山頂から大岩が転げ落ちて散らばり、山中の奇観を呈するに至ったといいます。
岩伏山へ足を踏み入れると登山道付近には山姥が住み着いていたという洞窟や碁盤石山の天狗もその姿を見て逃げ帰ったという笠石、はな垂れ岩などの奇岩・巨岩が点在していて見どころが豊富です。
また名倉は戦国時代に作手奥平氏の庶流名倉奥平氏が起こった地でもあり、岩伏山山頂には武田信玄の狼煙台跡もあります。
今回は天狗が跋扈し、戦国の豪族たちも駆け巡っていたであろう岩伏山へおじゃましてみましょう。
岩伏山へのアプローチ
登山口となる津島神社へは自家用車の利用が便利です。
地元の方の厚意で神社手前に駐車スペースが設けられています。
尚、現地にトイレ施設はないので途中で国道257号線沿いにある「道の駅アグリステーションなぐら」に立ち寄って準備をすませていきます。
道の駅なぐらは月曜日が休業日ですが、トイレは24時間使用できて便利です。
岩伏山登山道の近況と見どころ
登山道の概要とワンポイントガイド
今回の登山ルートは津島神社を起点に反時計回りに岩伏山を周回してくる半日探訪コースです。
山中は道標が設置されたハイキングルートになっていますが、ところどころでルートが不明瞭であったり途中の山姥洞窟へはガレた小沢も登ります。
また山頂からの下りは急坂が続きますのでスリップ・転倒リスクなど少々しょっぱいところがあります。
油断することなく事前にルートや通過ポイントをよく確認しておき保護具を着用するなどしっかりとした準備と装備で出かけましょう。
尚、古い記録などでは岩伏山からの眺望が紹介されていますが、筆者山行時現在の岩伏山は頂上からの景色は樹木が生長していてあまりよくありません。
落葉シーズンになれば立木の隙間からもう少し眺望を期待することができそうですが奇岩・巨岩めぐりを主目的に出かけたほうが納得の山行ができます。
岩伏山概念図は設楽町の公式観光サイトの岩伏山パンフレットが参考になります。
登山道の近況と見どころ
名倉奥平氏の墓石
スタート地点となる津島神社の鳥居脇に小さな墓石があります。
この地に進出した名倉奥平氏の墓石で見どころです。
ひっそりと草むらに埋もれていて登山者にはあまり振り向かれていないかもしれませんが名倉奥平氏は戦国時代山家三方衆と呼ばれた豪族の一つ作手奥平氏の二代貞久の六男貞次に始まり戦国時代の一時期は武田氏に帰属していました。
岩伏山山頂にある信玄の狼煙台跡とはこんなところに関係があるのですね。
貞久から四代下った奥平貞昌はのちに徳川家康の長女亀姫を正室にすることになる奥平信昌(貞昌が初名)です。
ふもとの墓石、山頂の狼煙台跡と戦国の歴史が垣間見えて興味深いところです。
津島神社から岩伏山登山口へ
駐車場から鳥居をくぐり階段を登って津島神社に上がります。
岩伏山の登山口へは本殿左脇の小径奥に「一合目 登山道→」と書かれた手作りの青い道標が見えますのでそこから先へ進みます。
先へ進むと獣害防止柵に突き当たります。柵を開けて通り必ず閉めておきます。
林の中を進んで右手下に堰堤が見えると茶臼山高原道路に出合います。
車に注意して車道に下り立ち道路を横断した向かい側が今回山頂から降りてきたときの下山口です。
「岩伏山登山 帰路口」の青い道標が立っていますので確認しておきましょう。
往きは車道を東側へ150mほど進むと「←岩伏山登山道 二合目」の道標が立つ登山口に到着しますのでここから山頂を目指します。
岩伏観音
登山口から5分ほど歩くと堰堤が見えてきて堰堤下で朽ちた丸木橋を沢の右岸へと渡ります。
さらに5分ほどで岩伏観音に到着します。
案内板正面向こう側の岩の上にちょこんと安置されています。
お峰岩
岩伏観音から数分でお峰岩です。
明治の頃、老婆が楽々と登ったと説明書きがあります。
ボルダリングの愛好家であれば取り付いてみたくなる岩ですね。
お峰さんはさしずめ今でいうスポーツクライミングの大先輩といったところでしょうか。
山姥洞窟
お峰岩から山腹を見上げながら進むと山姥洞窟の説明板と道標が見えてきます。
山頂への登山道は右、洞窟へは左30mとあります。
山姥洞窟は場所がわからずに引き返してしまう人もいるようです。
ルート中の大きな見どころですのでぜひ立ち寄りたいところですが、洞窟直下はガレ場になっていて足元が非常に悪いため慎重に行動する必要があります。
洞窟へ行くには説明板裏の踏み跡を左へ辿ります。
すぐに右手から小沢が下りてきていますので沢を詰め上がるとその奥に黒く口を開けた洞窟が見えてきます。
傾斜がきつく水も流れていますのでスリップや転倒に注意して慎重に登り降りします。
崩れないでねと心の中で唱えながら大岩の奥を覗いたら静かに撤退します。
登山道まで無事戻れば、ほっと一息、ふ~っとなること請け合いです。
ミズバショウ群生地
ルートは続いて岩伏長命の滝を右手に見ながら沢の右岸沿いを登ってゆきます。
正面に大岩が現れたところで左へ曲がると倒木で荒れた沢筋に出ます。
迷いやすいところですが尾根に登り上がってトラロープや工事用バリケード沿いに踏み跡を進むとやがて傾斜が緩やかになり林が明るくなってきます。
ひらけた足元に小さな沢が数本流れる林の中をさらに目印テープと道標を辿ってゆくとミズバショウ群生地に出ます。
ハイシーズンの状況を筆者は確認できておりませんが、カモシカの食害で芳しくないようです。
八合目鞍部から山頂へ
岩伏山山頂へは山頂から北東に延びている尾根の鞍部に回り込み、鞍部から南西方向に尾根を直登します。
ミズバショウ群生地を過ぎて廃屋前を通って「矢作川源流↑」とある青い道標のところで丸太を左手へ渡ります。
立木の目印テープを辿ればしばらくで8合目の鞍部に到着します。
ここから尾根を15分ほど直登すれば三等三角点のある山頂に到着します。
岩伏山山頂信玄の狼煙台跡
前述したように岩伏山の山頂は現在樹木が生長していてあまり展望が効きませんが武田信玄の狼煙台跡とされる岩があり見どころになっています。
看板の説明書きには「・・・(中略)。この狼煙台は、武田軍が家康を破った三方ヶ原の戦い、信長、家康の連合軍に大敗した長篠合戦の様子を信州に送ったものと思われる。狼煙の色と数で情報を送り、川中島合戦の様子はわずか二時間半で甲府に届いたという。」とありますが果たして真相はどうだったのでしょうか。
武田軍がここを狼煙台に使えたのは名倉奥平氏が武田氏に帰属していた期間のはずですが宗家の作手奥平氏は長篠の戦いに先立つ1573年の夏には武田氏を離れて徳川氏に帰参しています。
名倉奥平氏も同じくこれにならったと考えられています。
山家三方衆は自家の存続と領土安堵をはかるため目まぐるしく帰属先の有力大名を変えていきました。
名倉奥平氏が武田氏に帰属していたのはごく短い期間でこの狼煙場が武田方の狼煙場として機能したのは信玄が亡くなる1573年頃までではないでしょうか。
三方ヶ原の戦いはともかく奥平氏が徳川氏に帰参していた1575年の長篠の合戦の頃にはこの狼煙場は徳川方にあったと思います。
岩伏山に煙がもくもくと立ち上っていた頃の様子を勝手に想像をめぐらせてみるのも楽しいですね。
笠石
山頂で青空ランチを楽しみ戦国時代の夢から覚めたら下山します。
狼煙台跡の横を通り下山しますが、下りは急斜面の連続となるため注意が必要です。
落ち葉が深いとスリップや転倒しやすくなります。
トラロープが要所に張られていますがロープをつかんで過信しすぎるのも禁物です。
また下りはじめに尾根が広がるところでは方向を外しやすくなります。
要所に目印テープや赤い道標がありますので慌てずに周囲を見回しながら慎重に下るようにします。
25分ほど下ると笠石です。
どうですこの姿!
説明板にはクスッとなる別名も紹介されていますが、三度笠の渡世人のようでもあります。
その後ろ姿には殺気さえ感じます。
振り向きざまに一太刀浴びせられそうで天狗が逃げたというのもなるほどと頷けます。
はな垂れ岩
さらに5分ほど急な斜面を下るとはな垂れ岩が現れます。
筆者はこの岩をはじめて自分の目で見るまではその大きさを想像できておらずもっと小さいものだと思っていました。
実際に自分の目で見るとこんなに大きかったのかときっと驚かれると思います。
はな垂れ岩はちょっと斜めからみる顔つきがそれらしく見えて愛らしいですね。
ここでも岩の下を横断するときは、ずり落ちてこないでねと念じながら静かに通過させてもらいます。
はな垂れ岩から先は登山道の傾斜も緩やかになり山の斜面のあちこちに点在する大岩を眺めながら林の中を下れば往きで確認した茶臼山高原道路の帰路口に帰ってきます。
外から望むのどかな里山の風景と懐に入れば楽しい伝説やスケール感がある自然の妙をたっぷりと味わえる岩伏山。
お出かけしてみてはいかがですか。
管理人探訪日 | 2024年9月30日 |
津島神社発 | 9:05 |
津島神社戻り | 13:15 |
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